1928年にイギリスの細菌学者であるアレクサンダー・フレミングによって発見された世界初の抗生物質「ペニシリン」。
当時不治の病であった肺炎や結核などの感染病を瞬く間に治癒へ導き、人々から「奇跡の薬」であると称賛されました。
名前の由来ともなったアオカビからβ-ラクタム系抗生物質であるペニシリンの研究を深化させ、大量生産を可能にしたオーストラリアの生理学者ハワード・フローリーとイギリスの生化学者エルンスト・ボリス・チェーンと共に、ペニシリンの発見者であるフレミングは1945年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
授賞式のスピーチで既に薬剤耐性菌の問題に触れていたフレミング。
開発当初から予見されていた薬剤耐性の脅威が今、現実のものになろうとしています。
何の対策も打たなければ、2050年には大きな社会問題として発展すると危機感を持って語られている薬剤耐性菌問題。
その概要を学び、私たちが今できることを考え、実践していくきっかけにしましょう。
目次
1. 薬剤耐性(AMR)とは?
1.1 概要
1.2 抗微生物薬と薬剤耐性菌
1.3 AMRの増加と啓発の歴史
2. ヒトと薬剤耐性菌
2.1 AMR2050年問題とは?
2.2 日本と世界の現状
2.2.1 日本
2.2.2 欧州
3. 動物と薬剤耐性菌
3.1 食品への影響
3.2 環境への影響
4. AMR対策アクションプラン
4.1 概要
4.2 6つのアクション目標
4.3 EUによる輸入規制
5. まとめ
1. 薬剤耐性(AMR)とは?
ペニシリンの発見者が予見していた薬剤耐性菌の発生。その概要について見ていきましょう。
1.1 概要
薬剤耐性 (AMR : Antimicrobial Resistance) とは、かつて死に直結する疾患であった感染症を治療するために開発された細菌やウィルスなどの病原体微生物を滅殺する薬剤に対して、微生物が生き延びるために編み出し獲得した防御手段によって、薬効が減弱化または無効化されることを意味します。
1.2 抗微生物薬と薬剤耐性菌
感染症の病原体となる細菌・真菌・ウィルス・寄生虫といった微生物の活性を阻止する働きを持つ薬剤を総称して抗微生物薬と呼び、各微生物への抗活性性を高める目的で開発された薬剤は各々抗菌薬・抗真菌薬・抗ウィルス薬・抗寄生虫薬と呼ばれており、感染症の予防や治療を目的として使用されています。
抗菌薬は、一般的に、抗生剤や抗生物質とも呼ばれ、汎用されていますが、上述のように、細菌に対する効果を発揮する薬剤であり、風邪など主にウィルスを病原体とする疾患に対して薬効は発揮しません。
薬剤耐性菌は、1980年代以降に世界中で増加傾向が確認された抗菌薬が効かない細菌の総称であり、MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)がその一例として広く知れ渡っています。
長引く薬剤投与期間や不適切な病原体への使用など、誤った使用方法によっても薬剤耐性菌の増殖を促す所以となります。
1.3 AMRの増加と啓発の歴史
薬剤耐性菌が大きな脅威となることが広く周知され始めたのは1980年代。
米国疾病管理予防センターCDCは、1995年に抗生薬適正使用を推進するキャンペーンを開始しました。他方、市井では、薬剤耐性菌問題は医療機関内でのみ発生するとの認識が席巻していました。
2000年以降、集団罹患など、薬剤耐性菌による症例数は更に増加し始めたことを機に、欧州疾病予防管理センターでも2008年以降、毎年11月18日を抗菌薬啓発デーとし、WHOも追従し、2015年以降、11月18日から24日までの1週間を世界薬剤耐性(AMR)啓発週間と定めました。
2. ヒトと薬剤耐性菌
増え続ける薬剤耐性菌。このまま増加曲線を辿った先には何が待ち構えているのでしょうか。
2.1 AMR2050年問題とは?
抗菌薬の効果を阻止する薬剤耐性の能力を身に着けた細胞が増えており、何の対策も施さず、実践しなければ、AMRに起因する死亡者数は、2050年に、全世界で1000万人にも上ると試算されています。
2019年時点で、既に、薬剤耐性菌に関連する死亡者数は年間約490万人、薬剤耐性菌に起因した死亡者数は約120万人に上ったと推計されています。
2050年時点で想定される死者数は、現在、死亡原因として最も多い、がんに起因する死亡数を超える事実を目前として、AMR2050年問題として取り沙汰されています。
2.2 日本と世界の現状
現在、WHOを中心として世界各国で繰り広げられている薬剤耐性問題への啓発と対策。
経年的に増加傾向にある薬剤耐性菌と抗菌薬の使用量に関して、日本と欧州の現状を2020年時点でのデータを用いて確認してみましょう。
2.2.1 日本
欧州に位置する27か国(イギリスなども含む)と抗菌薬使用量を比較した際、日本は全28か国中22位であり、最も使用量の多いギリシャの約1/3、フランスの約1/2に抑制されています。
日本の抗菌薬使用の特徴としては、欧州各国と比較して、セファロスポリン系・βラクタム系及びマクロライド・リンコサミド・ストレプトグラミン系が多く用いられており、ペニシリン系が少ない傾向。
一方で、薬剤耐性菌の発現率に於いては、黄色ブドウ球菌メチシリン(MRSA)耐性率・大腸菌第3世代セファロスポリン耐性率・大腸菌フルオロキノロン耐性率が欧州の水準を大きく上回っており、抗菌薬使用量及び薬剤耐性菌発現率も低いオランダ及び北欧諸国と比較した際、日本に於いて、適正な抗菌薬の使用が行われているか否かは定かではありません。
2.2.2 欧州
抗菌薬使用量が少ない国は、上位から、オランダ、オーストリア、スロベニア、スウェーデン、エストニア、ハンガリー、ラトビア、フィンランド、ノルウェー、リトアニアでトップ10であり、11位のデンマークを含めると、すべての北欧諸国がランクインしています。
欧州各国では、ペニシリン系が比較的多く用いられているのが特徴的ですが、デンマークではその傾向が顕著です。
3. 動物と薬剤耐性菌
動物が保有している薬剤耐性菌は、畜産物・農産物・水産物などの食品を介してヒトに感染することが判明しています。
動物に対する抗菌薬の使用と付随して発生する薬剤耐性菌に関して、食品と環境への影響について見ていきましょう。
3.1 食品への影響
農畜産水産物といった食料となる広範囲に及ぶ生物に用いられている抗菌薬。その使用方法は、生物間の感染症を予防するに留まらず、殊に、畜産業に於いては成長促進剤としても利用されています。
世界の食肉生産国として、抗菌薬の使用は中国・米国・ブラジルで日本や欧州各国と比較して顕著に多く、家畜への使用量は、ヒトへの使用量よりも多い現状です。
抗菌薬は食肉への残存性が認められているため、出荷前の一定期間投与禁止などの処置が取られている一方で、薬剤耐性菌に感染した食肉が出荷されている可能性は否定できず、懸念が示されています。
3.2 環境への影響
動物の排泄物に薬剤耐性菌が混入していた場合、それらの排泄管理ルートや排泄物を用いた肥料などを介して、水質・土壌・農作物を汚染し、広範囲にわたる感染源となり得ます。
また、家畜や養殖、農作物に限って抗菌薬が用いられている訳ではなく、同様に、抗菌薬が投与されたペットの体内で薬剤耐性が獲得され、耐性菌が発生した場合、ペット及びその排泄物なども感染源となり得るため、薬剤耐性菌による感染症が市井を広く席巻することとなります。
なお、野生動物に於ける薬剤耐性菌による感染は、生息環境によっては少なからず認められる一方で、家畜やペットと比較して低率であることが判明しています。他方、野生水鳥を介した水質汚染には注意が必要という見解も見られます。
4. AMR対策アクションプラン
2015年5月に開催された世界保健総会で採択された「薬剤耐性対策に関するグローバルアクションプラン」。
2023年11月時点で、178か国に於いて各々の国家アクションプランが策定されています。
日本でも2016年4月に薬剤耐性(AMR)対策アクションプランを策定し、現在2023年に更新されたアクションプランが2027年までの期間設定で適用されています。
具体的な内容を見ていきましょう。
4.1 概要
ヒト、動物、農業、食品及び環境の各分野において薬剤耐性菌及び抗菌薬使用の現状及び動向を把握することは重要であり、最優先課題でもあるとして構築された薬剤耐性(AMR)対策アクション。
2023年以降の最新版では、ヒト・生物・環境をひとつながりと考え、各々の薬剤使用状況を介した動向を縦横断的にサーベイランス及びモニタリングを行う「ワンヘルス」の観点が強く謳われています。
4.2 6つのアクション目標
薬剤耐性対策アクションとして6つの分野に跨る目標が掲げられています。
目標1.全てのひとが薬剤耐性に対する知識を深める
目標2.薬物耐性の動向を調査し監視する
目標3.適切な予防と管理策を講ずる
目標4.抗微生物薬を適正に使用する
目標5.薬物耐性に関する研究開発と創薬に注力する
目標6.国際協力と比較で知見を高め推進する
これらの目標は一見行政主導のようにも見えますが、目標2と5以外は、全てのひとが関与できる事柄であり、また、各人が自主的に取り組むことで、行政側の動きも活性化され、相乗効果が生まれるのではないかと考えられます。
その第一歩として、行政側からの適切で分かりやすい情報開示の在り方が求められます。
4.3 EUによる輸入規制
薬剤耐性菌問題及びアニマルウェルフェアの観点から、EU欧州連合による規制がより厳格化されており、EU諸国への輸出に際して、家畜などの生産管理過程に於ける注意事項が詳細にわたり提示されています。
薬剤耐性菌対策としては、使用可能な抗菌剤は限定的であり、日本で使用可能な抗菌剤であり、かつ、EU輸出時の規制対象となるのは、ホスホン酸誘導体(ホスホマイシン)。
ホスホマイシンは、動物用医薬品としては、牛の大腸菌性下痢症及びサルモネラ症に使用され、飼料添加物としても使用されています。また、一部魚類の飼料添加物としても用いられています。
私たちひとりひとりの健康や、環境問題だけではなく、食品の輸出といった経済産業界に於いても、今や、ワンヘルスの視点は必要不可欠な存在となっています。
5. まとめ
感染症予防で最も重要なことは、手指手洗いや加熱・保存方法、咳エチケットや必要に応じたマスクの着用など、病原体を寄せ付けない日ごろからの衛生管理と適切なワクチン接種です。
他方、感染症に罹患した際、薬剤耐性菌による影響を最小限に留めるために私たちができることは、処方された薬剤の内容を医師、薬剤師、医療スタッフに確認し、おくすり手帳にも目を通すこと。
何を目的に、どのような薬剤をどれくらいの量、いつまで服用必要があるのかを確認することは大切なことですし、本来、医療機関としても説明しなければなりません。
また、医師から処方された薬剤を、自己判断によって他者と共有することは、薬剤耐性菌を知らず知らずのうちに拡散している可能性もあります。
食材を購入する際にも、業者や販売店が適切な対応に徹しているとは限らないため、私たち自身も商品の製造過程を確認するなど、消費者としても情報収集に努めることが大切です。
なお、肥料原料を輸入に頼っている現状下に於いて、化学肥料の原料が高騰化しており、打開策として政府が中心となって推進している下水汚泥資源を肥料として活用する施策は、このように薬物耐性菌やPFAS問題への見解が未だ明らかとなっていない状況で、新たな問題を引き起こすことにはならないのでしょうか。
また、化学肥料不使用を根拠の盾とし、知らず知らずのうちにオーガニック栽培に位置付けられた場合、私たちの判断を誤らせてしまう可能性もあり、“特別栽培”表示の二の舞を踏むことにもなってしまい兼ねません。
多くのことに目配り、心配りが必要な現代社会は、情報過多と相まってストレスフルな環境でもあると言えますが、少しずつでも良い方向に進もうとしている動きがあることに希望を持ちつつ歩みたいものです。
【参考資料/URL】
WHO
https://www.who.int/
AMR臨床リファレンスセンター
https://amr.jihs.go.jp/
「薬剤耐性ワンヘルス動向調査年次報告書2024」
薬剤耐性ワンヘルス動向調査検討会
「抗微生物薬適正使用の手引き 第三版」
厚生労働省健康・生活衛生局
感染症対策部 感染症対策課
「薬剤耐性(AMR)対策アクションプラン2023-2027」
国際的に脅威となる感染症対策の強化のための
国際連携等関係閣僚会議
「EUにおける新たな動物⽤医薬品規則及び
アニマルウェルフェア規則に関するご説明」
農林水産省、野村総合研究所